広沢池地図

遍照寺旧境内
児神社地図

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 嵯峨野の北にある洛西第一の大池で、
宇多天皇の孫寛朝僧正が開いたもので、
周囲約1km余あり、山と池との一体化した景観が美しく、
昔から観月の地として名高い。
 堤に桜がある。
   
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この池は、宇多天皇の孫に当たる寛朝僧正が、

平安時代中期に、池の北側(遍照寺山の麓)に遍

照寺を建立したことに併せて造られたものと伝

えられているが、一説には、この付近一帯の用

水池として掘られたものともいわれている。

遍照寺は、池のほとりに釣殿,月見堂などを

設けた美しい風景を前にした大きな寺であった

が早い時期に荒廃した。その後、ここから南

に約三百メートルの所に再建され堂内に、創

建当時の遺像といわれる十一面観音立像(重要

文化財)と不動明王坐像(重要文化財)を安置

している

この池は、西に位置する大覚寺の大沢池とと

もに、古くより観月の名所として知られ、多く

の歌人によって数多くの歌が詠まれた。

現在は鯉などの養殖が行われており、年末に

池の水を抜いて成長した鯉を収穫する「池ざら

え」は、京の冬の風物詩となっている。

また、この「児神社」は、寛朝僧正が他界し

た際、悲しみに打ちひしがれて池に身を沈めた

僧正の稚児を弔うために建てられたものである。

京都市 

 

「広沢池は日本三沢の一つといわれ、音戸山の南麓にある灌漑用の溜池です。
平安時代の中期永祚元年(えいそ・989)に宇多天皇の孫寛朝僧正が北西の朝原山に遍照寺を
建立した時に造られた池と伝えられ遍照池ともいわれています。
一方、8世紀に嵯峨野を開拓した秦氏が原始的な溜池を造ったのが始まりとの説もあり、
詳細は定かではありません。
 平安時代には、観月の絶好地として王朝の歌人が千代の古道を通って盛んにこの池を訪れ、
歌を詠んだということです。」
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遍照寺旧境内
 遍照寺は、永祚元年(989)に花山天皇の御願により、宇多天皇の孫にあたる僧寛朝が広沢池の北西及び西側一帯に創建したものです。広沢池は、この創建時に池の南側を堰き止めて造られたとも伝えられています。
遍照寺は大覚寺と隣接して壮大な伽藍を構えていましたが、応仁の乱により衰退し、その後、江戸時代の寛永年間に嵯峨広沢西裏町に再建されて現在に至っています。寺には定朝の父康尚の作とされる重要文化財の本尊十一面観音立像と不動明王座像が当時のものとして安置されています。
 これまで創建時の遺構はほとんど残っていないとみられていましたが、近年、池の西北岸で基壇状遺構が残存していることが明らかになりました。この遺構は一間四面の御堂跡とみられる。

清滝川流域は、北山丸太を生産する林業が盛んです。林業の営みにより守られる森林が雨水を貯留し、清滝川の水を育みます。


嵯峨用水
 嵯峨地域の農業用水は、その大部分を4つの溜池に依存していました。
 しかし、観空寺谷池と大沢池は集水面積にくらべ容量が小さく、菖蒲谷池と広沢池は容量にくらべ集水面積が狭く、十分な機能を果たし得ない状態であったことから、幾度も干ばつの害を受けていました。
 さらに、昭和26年7月11日の豪雨にて、観空寺谷池が決壊したことにより、用水不足は一層激しくなりました。
 このため、江戸時代からも計画があったという、新たな水源を清滝川に求める構想が実現されることになり、清滝川の水をトンネルで導く嵯峨用水が昭和30年に完成しました。
 嵯峨用水は、広沢池にも導かれ、今も嵯峨地域の各農地を潤す貴重な農業用水となっています。


児神社

     
 児神社は創立年月不詳、祭神は寛朝大僧正の侍児である。寛朝大僧正は、成田山新勝寺を開創、後にこの嵯峨広沢の地に遍照寺を建立、
名僧正として徳は一世に及ぶものなしと言われた。長徳4年(998)6月12日、大僧正示寂、伝聞ではその時、遍照寺山腹の老松から龍となり、
静かに昇天していくのが見えたという。残された児は、悲嘆・悲泣し、後を追い、山腹下に広がる広沢の池に身を沈めた。
近在の人々、この児を哀れと思い、その霊を慰めんものとこの社を創建、以来児神社と称されるようになった。




















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